証拠を取ったが、この証拠では動けないと言われてしまったという相談について

証拠収集において、重要なことは「目的」「収集の方法」「客観性」が重要である。
多くの方の相談を受けていて、思うことは、重要要件の3つが不足している、もしくは、欠けているということである。

証拠収集調査のプロとして、被害の当事者でない私は、立場的に一定の客観性を自然に持つことになるし、証拠取集における違法や合法の区別も正確な知識を有し、目的は一貫して被害児童や被害生徒の救済を目的としている。

これは、私が本職であって、第三者であるから明確な線引きをする事ができるのであり、仮に自分が当事者であったら、ここまで冷静に判断を下すことは厳しいであろう。

例えば、録音。いじめの実態は録音が効果的であり、その実施をしたのは、私が第一人者となるから、こと、いじめの実態を録音という歴史は浅い。当時はずいぶんな批判の嵐であった。それが今や当時、私を批判していた研究者までもが、録音を推奨するとは皮肉である。

録音については、当事者が録音をすることは当事者録音となるから正当性が保つことが可能である。一方、当事者ではない第三者が、許可を得ず、その会話などを録音しようとする行為は、盗聴となり、不法行為となる。
つまり、いじめ行為の被害者になる子どもが録音機を隠しもち、いじめ行為を受けている様子を録音することは、正当行為であり、隠し撮りであっても、その収集方法は、合法的となるが、当事者ではない被害者の保護者がその場にレコーダーを仕掛け、録音する場合は、盗聴行為となりうる。
ある学校が、録音機を持ち込むこと自体を不法侵入に当たると主張する事があるが、目的が明確であって、状況を把握するためには不可欠である場合は、不法侵入には当たらないであろう。

中には、校則で規制をする学校があるかもしれないが、そのように隠蔽することを公表している学校には入学してはならないし、他に救済措置を明確に示せないのであれば、録音機による証拠収集方法は規則による処分は出来ないと考えるのが妥当であろう。

一方、録音の内容である。
事実、ここが一番問題となりやすい。私がレクチャーまでをして録音に挑む被害児童及び生徒は、その録音内容のみで、その場で何が起きていたのかをある程度示すことに成功している。一方、自身で録音しましたと持ち込まれた内容は、「痛い」とか唸り声とか、囃し立てるような音声がメインで、いったい誰が暴力をしているのかとか、その場を再現して想像することが曖昧になりがちである。
結果、詳細を聞き取り、それを照らし合わせて、録音を聞くことになるが、聞き取った内容は、緊急且つ危機状態である当事者が、過去の記憶を追いながら証言することになり、曖昧さが残ってしまう。

私の経験では、いじめの加害者やその保護者が、いじめ行為を即座に認めるということは、珍しい。きっと、すぐに認めたり、子に対し適正な倫理を持っていじめ行為を中止せよと指導ができる保護者がついているのであれば、私のところまで問題は来ないであろう。

認めない子どもは、証言や証拠に隙があれば、必ずそこを突いてくる。そもそも加害者の方が多いのがいじめであるから、数の論理を使い、口裏を合わせて、逆説的な主張を繰り返す。そしていじめは認めない。

この対立で、教員が適正なジャッジをすることは困難に陥ってしまう。証拠に穴があり、それのみでは、どうにも指導する根拠として心許ないと思ってしまえば、学校としても、これのみで指導をするのは難しいと判定してくるというわけだ。

本来、このような場合に学校側が証言や証拠を積み立てていく方法論はあるのだが、それは別の項目で取り上げるとして、ここでは証拠についてを考えていこう。

録音においては、そこに「だれに」「なにを」を中心に記録するようにする。
例えば、教室でいつも暴力行為をされていたとする。その場合、「やめてよ」だけではなく、「A君、やめてよ。痛いよ。」と入れる。クラス内は、利害などがあって証言をなかなかしない空気がある場合は、逃げられる場合は逃げて隣のクラスに駆け込む。駆け込んでも暴力があれば、証言する者は増え、加害者側は証言をコントロールすることができなくなる。そして、その後は、すぐに保健室に行き、どこが痛いか、どこを殴られたか、蹴られたかなどを申告する。
申告することで、仮にここも録音があれば、暴力のことは話しているのだから、いじめ行為により怪我をしたことになり、それを学校側が把握すべき出来事があったことが証明できるのである。

録音では、だれが加害者か明確になっているから、この場合A君は、なぜ暴力をふるったのかということになるが、たいていは、自己を正当化するような最もらしい理由を述べるであろう。
仮に、この暴力前に被害者側がA君に、何らかの暴力行為をしたのだと主張したとすると、私が無料レンタルする録音機はおよそ15時間程度は録音し続けることができるから、その前後に被害者からの暴力はないということが、録音で証明することができるのである。
こうなると、A君は、暴力を認めざるを得なくなる。いじめは、被害者側がいじめられていると思うからいじめを訴えるのであって、構成要素としては、その加害行為があったかということになるから、暴力行為を認めたところで、この行為はいじめと認定せざるを得ない状況が作られるのである。

学齢が進むと、暴力は酷くなりやすい。これは腕力的な問題も関わってくるであろう。ゆえに、打撲が視認できる程度まであったり、骨折などの事態は、刑法でいうところの、「暴行罪」「傷害罪」に該当することになるであろうから、学校が適正な処罰及び指導を下さない場合や加害児童及び生徒、その保護者が一般常識としての謝罪をしないのであれば、警察に被害届を出すのが妥当ということになる。
この被害届について、やり過ぎではないかという主張もあるだろうが、これは、この加害児童及び生徒のためであるのだ。なぜなら、学校として適正な指導も処罰も出来ない環境があるのならば、教育的環境が無いと判断できる。また、家庭環境においても、自らの子が、謂れの無い暴力を他者に行い、それを諭し、暴力を振るわないなどの教育をおこなう環境がないことになる。つまり、加害児童及び生徒は、本来得るべき成長を見守る環境がないことになる。そうなれば、これを正しい道に指導監督する機関に委ねるのが、彼のためなのである。

証拠収集は同時に被害を受けることになるから、それについては、当事者本人の意思に委ねることになる。1回は1回、少なければ少ないほどダメージは少ないはずだ。

被害者となり、またその保護者であったりすれば、問題への目線は主観的になってしまうのは自然の理である。当の私も、数千件というトラブルの証拠を集めてきたし、仕事としてトラブルを扱う以上、トラブルについては人より圧倒的に多くの経験を有し、冷静に見極めることに慣れているが、自分や身内のこととなれば、熱くなりやすくなり、冷静な判断が難しくなる。私の場合、仕事上の付き合いもあって、様々な専門家を知っているから、自分でトラブルを納めていく場合は、ブレーンとしての意見を必ず第三者に求めるし、依頼できることは依頼するようにしている。それは、やはり、当事者とれば、普段はどんなに冷静沈着なパーソナリティであっても、その精度が落ちることを知っているからである。
保護者が自分の子のことだから、自分だけで必死に守ろうとする気持ちは、私も親の身だからよくわかるが、そこに極めて第三者的な視点はあるであろうか。極めて冷静な判断をすることは可能だろうか。
そういう点をよく考え、信頼できる第三者で専門家に意見を求めるのが大人としての嗜みなのではないであろうか。

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