いじめの定義の解釈に懸念

いじめに関する定義は、諸問題が発生するごとに変更されてきた。それは、定義を変えなければならない事件が起きていたからである。そして、凄惨ないじめ被害や頻発するいじめに歯止めをかけるために、法ができた。
いわゆる「いじめ法」である。(いじめ防止対策推進法)

このいじめ法には、もちろん定義がある。

(定義)
第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
2 この法律において「学校」とは、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第一条に規定する小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)をいう。
3 この法律において「児童等」とは、学校に在籍する児童又は生徒をいう。
4 この法律において「保護者」とは、親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。

第一条では、目的があり、第三条では、基本理念が示されている。

こうしたことを通常通りそのまま理解すると、下記のような解釈となる。

「被害者の立場に立って」
「行為言動などがある。(学校内外を問わず、インターネットも含め)」
「被害者が精神的もしくは身体的な苦痛を感じている。」

の条件が揃えば、原則「いじめ」となる。
ここでは、あえて、一定の人間関係という条件は省いたが、クラスメイトでも塾であっても関係する人物ということは、当然存在する事実である。

ところが、これに今、待ったが掛かっている。

2016年6月30日、文部科学省の有識者会議(いじめ対策協議会)での一幕というか、そのために事前に取られていた学校関係者へのアンケートの結果では、実際に待ったがかかってしまった。

いじめの定義のまま捉えれば、広く解釈ができるので、いじめの数が膨大になりすぎて対応ができない

いじめの数を文部科学省がそれのみでは評価しないことになって、いじめを報告しやすくなった。

教員間で解釈の違いがあり、対応に温度差がある。

だから、いじめの事例を明確にして、わかりやすくしようという結論になるのだが、それでは、法の意味がないではないかということになるのである。

そもそも、いじめが多いということを学校関係者は認識している。膨大になりすぎて対応ができないとはなんぞや!対応できないのではなくて、対応する方法を様々な観点から考えるべきである。いじめの定義を否定するのは、学校関係者の都合ではなく、子どもたちの安全を考慮せざるを得ない事情などがあるときであろう。(今の所、そのようなことはないと思われる。)
さらに、文科省はいじめの数を評価対象にすると、隠蔽するなどがあると考えて、これを評価しないとしたのではないか。ともすれば、「いじめを報告しやすくなった。」は別の言葉に言い換えることができる。「いじめを隠蔽する理由がなくなった。」ということになりはしないか。

また、人によって大きな会社の違いが出ないように法という中でわかりやすく定義しているのではないか。明文化すること以上をすれば、運用側の都合に落ち着いてしまうというのが世の常ではないのか。

もっとも、学校教育関係の報道は、おざなりになりやすい傾向がある。これに関する報道は、少しされたが、有名どころのトピックスにはあがっていないし、新聞各社を見ても記事にすらなっていないところのほうが圧倒的に多い。

法はあるが、気が付かぬ間に、勝手に解釈に色をつけられてしまう。
これこそが危険であろうし、普段からいじめの被害者、特に学校側の不作為や隠蔽などに遭っている被害者家族からの相談を受ける身としては、わかりやすい定義を法改正を伴わずに、勝手に解釈だけを変えようとするその対応こそ、このいじめ問題に目を背けてしまうことになるのだ。

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