子どものいじめ、いじめ被害者にも非があるという考え方の愚かさ

いじめについて講演などをしていると、「いじめられる方にも何か原因があるでしょ?」という質問を受けたりする。
こういう質問やある種の確認は、参加した交流会や打ち上げなどの酒の席では、もっと頻繁に投げかけられるから、多くの大人が、「いじめられる方にも原因がある。」と考えているのであろうと思われる。
さらに、自称元いじめっ子という大の大人が、「国籍が違ったからいじめた。」「肌の色が違うからいじめた。」と自慢話をしてきたりする。これは、大いに問題だ。いじめというよりは、彼の武勇伝は差別主義であり、人種差別を酒の肴に、自慢話にしているからだ。
いじめの問題を解決しようと日々奮闘している私がいる場で、そのような話をするということは、きっと喧嘩を売ってくれているのであろうが、あまりに愚かな価値観に、話す気力すら失ってしまう。このような人と、話す時間すらあまりに無駄に感じてしまう。

確かに私が接してきている数千人の子どもの中には、きっと学生時代の私は彼と友達にはなれなかっただろうなと、思うことがある。それは、単に気が合わないということであり、だからと言っていじめたかといえば、いじめという次元ではない部分で折り合わないと感じるだけであろう。

気が合わない、何かがみんなと違う、それのみで、いじめをするというのは、あまりに短絡的であるのだ。

小学生4年生から中学生3年生までの期間で、いじめを経験したことがあるかという追跡調査では、いじめられ・いじめをするという経験が一度もなかった割合は、13%程度に止まった。つまり、残りの87%はいじめられたか、いじめる側に回ったことが、1回以上はあったということになる。こういう結果を受け、国では、いじめ・いじめられについては、個の固定はさほどなく、だれもが被害者にも加害者にもなり得る流動的なものなのだと結論づけている。

この結論から考えれば、いじめられる側に原因を求めることはできなくなる。

そして、私の考えは一貫している。
いじめは行う側の選択であるということだ。いじめる側は、いじめるという行為を選択したのであって、仮に価値観に相違があるからといって、みんなと同じような行動をしないからといって、折り合う必要があれば話し合えばよいわけだし、教師などの大人に関与してもらうこともできる。適度に距離を置き、必要以上に関わらないという手もあれば、敢えて飛び込んでいき、相互理解を粘り強くすることだってできる。
仮に、そうした対応をしていって全てが徒労に終わったとしても、それでもいじめるという必要性はどこにも存在しない。

例えとしては、少し違うかもしれないが、横断歩道を赤信号で、ゆっくりと歩く人がいたとする。それを、自分側の信号が青だからといって、車で轢いたらどうなるであろう。というより、普通は車で轢くことはないはずだ。人によってはクラクションを鳴らす。(警告、注意)人によっては避ける。(回避)人によっては、車を止めて歩行をサポートする。(フォロー)人によっては警察に通報し、適正な指導を求める。(通報)など様々な対応をするであろう。一見、赤信号をゆっくり歩くことは無謀であり、危険であり、道路交通法などでは違法なんだろうが、轢くという人は異常性の持ち主に他ならない。

いじめは、いじめる側が故意にいじめるという選択をして、実行に移しているだけである。ゆえに、いじめは加害者側に原因があるとするのが、私の考えである。

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